2008年9月30日火曜日

New Hiroshima baseball game feild

 老朽化に伴い今季で閉鎖される広島市民球場(広島市中区)
で28日、広島カープのセ・リーグ地元最終戦があり、6―3
でヤクルトに勝ち有終の美を飾った。試合終了後、過去の優勝
旗が勢ぞろいするなか、選手たちがグラウンドを一周した。3
万人の観客は総立ちで「resident球団」の本拠との別れを惜しんだ。

 同球場は地元財界が建設費を寄付して、1957(昭和32)
年7月にopenし、被爆地・広島の市民に半世紀余り親しま
れてきた。毎年のように観戦に来ていた広島市南区の会社役員
は「市民球場ができた時はカクテル光線に映えた緑の芝生がと
てもbeautifulだった」と懐かしんだ。

 カープの本拠は来季以降、広島市が約2.5キロ東のJR
島駅近くに建設中の新球場に移る。

新球場は、domeであっても良かったが、weatherに左右される
旧態依然とした球場もいいものだ。私の知るヤマモトコウジや
アニヤやソトコバが活躍していた当時、広島球場にgameを観に
いった。
 決して広くない球場であったが、広島市民球場というだけ選
手が主役なのか観衆が主役なのか判らないくらい選手と観衆が
一体となってamusment場所だった。時代の流れとはいうものの一
抹の寂しさはあるが、これからの新球場の物語に期待する。

2008年9月27日土曜日

Food - Cooking

『長崎自動車道の佐賀大和インター料金所(佐賀市)に胴回りが
168センチもあるというカボチャ2個が飾られ、「メタボ注意
!!」と通行車に呼びかけている。

 アトランティックジャイアントという米国原産の品種で、重さ
は約40キロ。地元で9月に収穫され、料金所職員が農協から各
2千円で買い取った。10月末まで展示する。

 巻き尺にくくられた姿が笑いを誘う。「疲れたドライバーの心
を和らげたい」と職員。だが、胴回りが気になる人からは「自分
を見ているようで笑えない」との声も。』

 食欲の秋という事で、本当にwinecuisine
も美味しい季節となりました。今年も、松茸は土瓶蒸しか焼き松
茸でいきましょう。

 山々の彩りが変わる頃、目で食べ、耳で食べ、鼻で食べ、口で
食べるcooking。日本風土独特の美しさを放つ秋。

 日本酒が美味しくなる今、自戒の念を込めて健康診断結果票を
見なおしている私である。

2008年9月26日金曜日

BLUE SEAL・・・

 占領下の沖縄に、米兵向けに上陸したアイスクリームの
店が、60年を経て首都圏に広がっている。名前はブルー
シールアイスクリーム。米軍基地の街、東京都福生市のお
好み焼き店が、沖縄風味のアイスの普及に一役買っている。
 ブルーシールが沖縄にやって来たのは、終戦から3年た
った1948年。米軍の基地に乳製品の工場ができ、軍人
や基地で働く人たちにアイスクリームを提供した。当時、
基地からの横流し品を手に入れようとする人もいたという。

 現在はフォーモスト・ブルーシール社(沖縄県浦添市)
が沖縄県内で店を展開し、カップアイスも販売。紅イモや
ゴーヤー、サトウキビ、シークワーサーといった沖縄風味
のアイスが観光客に人気だ。

 首都圏で店を展開しているのは、福生市に本社がある、
お好み焼きチェーン「道とん堀」。2年余り前、ブルーシ
ールを店のメニューに取り入れたのが縁だ。

 在日米軍の司令部がある横田基地に面した国道16号を
車で走ると、大きなソフトクリーム形の看板が目に入る。
道とん堀が2年前に開いた福生店だ。「沖縄とロケーショ
ンも似ている福生に、試験的に出店した」という。

 福生で手応えを得たため昨春、神奈川県鎌倉市の街道沿
いに出店。昨年6月には、フォーモスト社と東京、神奈川、
千葉、埼玉、山梨など1都7県でフランチャイズ店舗を展
開する契約を交わした。

 フォーモスト社によると、沖縄県外でも個別の店に販売
してもらうことはあったが、首都圏での大規模なチェーン
展開は初めてだという。

 道とん堀は契約後、東京都多摩市、渋谷区や、埼玉県上
里町のショッピングセンターなどに出店。この夏は立川や、
六本木の東京ミッドタウンにも夏季期間限定で店を出した。
2012年までに137店舗を目指す。担当者は「関東に
はなかったアイス。沖縄で60年間愛され続けてきた強み
がある。目標は十分、達成できる」そうだ。

2008年9月25日木曜日

World baseball player

『世界の王選手」と言えば、知らない者など殆どない。
現役時代は、本当に紳士な選手で人間としても一目置か
れるスターであった。

 時代の流れは、速いもの、日本のO・N の実績を知らな
い人達も出てきた。私も歳をとったということだ。

 しかし、あの頃の読売巨人軍と言えば・・・柴田、高田
、土井、黒江、長島、王、国松、森、堀内、高橋・・・・
本当に強かった。絶対的に負けなかった。相撲で言えば、
大鵬だ。あの頃は「巨人・大鵬・卵焼き」という言葉がは
やったものである。絶対的に強いものを国民が欲していた
時代なのか。

「今季限りの辞任を表明したプロ野球・福岡ソフトバンク
ホークスの王貞治監督(68)が24日夜、福岡市のヤフ
ードームでホーム最終戦を終え、ファンに別れのあいさつ
をした。「本当に幸せでした」。プロ50年、うちホーク
スの監督としては14年。夢を与え続けてくれた「世界の
王」に、満員の約3万5500人のファンが感謝の声援を
送った。

 「心のこもった温かい声援、ありがとうございました」。
王監督はまず、ファンへの感謝の言葉を口にした。整列し
た選手たちの中には泣き顔が交じる。スタンドでも多くの
ファンが涙を浮かべていた。

 低迷する成績を謝り、「新生ホークスに今まで以上の声
援を」と求めてあいさつを終えると、球場全体から長い拍
手が送られた。

 最後に選手とともにグラウンドを一周し、胴上げされた。
「感動をありがとう!」「お疲れ様でした!」。スタンド
の歓声がひときわ大きくなった。』

 王さんの今後の御活躍をお祈りしております。

2008年9月21日日曜日

change the world

▼鈍重なシリア

 イスラエルは、1967年の六日戦争で獲得
した占領地を返還しつつアラブと和解していく
戦略だったが、占領地のうち返還されたのはエ
ジプトのシナイ半島だけだ。それも、79年の
国交回復後、米イスラエルでは右派の力が強く
なり、エジプトとイスラエルは国交再断絶寸前
の冷たい関係が続いている。

 ゴラン高原を奪われたシリアは、英雄好きの
派手で軽薄なエジプトとは対照的に、目立たず
安定を重視する鈍重な独裁のアサド父子の政権
がずっと続き「やらせの戦勝」もない代わり、
イスラエルとの和解や領土の返還もないまま、
今に至っている。

 イスラエルの中道派は、米イスラエルの右派
にずっと阻止されつつ、今でも「ゴラン高原を
返還する代わりにシリアと和平し、相互不可侵
の約束をする」という戦略を何とか実現したい
と考えている。米政府が妨害するので、最近で
はサルコジのフランスや、ロシアに仲裁を頼ん
でいる。9月3日には、サルコジが米制裁を無
視してシリアを訪問したし、8月末にはシリア
大統領とイスラエル首相が相次いでモスクワを
訪問している。

 今回の記事は、レーガン政権前までしか詳述
できなかった。ここからは早回しである。この
後、81年に就任したレーガン政権は、軍産複
合体に牛耳られており、最初はソ連を「悪の帝
国」と呼び、イスラエルを巻き込んでレバノン
に侵攻した。だが、政権内には隠れ多極主義者
が多くいたようで、政権末期には冷戦を終わら
せ、88年にはアラファトをチュニジアからガ
ザに移転させ、ヨルダンに西岸を放棄させ、ア
ラブ連盟にエジプトを復帰させて、93年のオ
スロ合意(パレスチナ国家建設合意)への布石
を敷いた。

 このレーガン政権の大転換が、どのようなか
らくりで起きたのか、私には今一つわかってい
ない。95年のイラン・コントラ事件によって
政権内の右派が外されたことにより、キッシン
ジャー以来の中道派(現実主義派)が台頭し、
冷戦終結・中東和平となったのではないかとの
仮説を以前に考えた。だが「新レーガン主義」
を自称していた現ブッシュ政権の流れから逆類
推すると、現政権と同様に、最初から「やりす
ぎ」によって軍産複合体の戦略を破綻させ、冷
戦を終わらせる隠れた戦略があったのかもしれ
ない。

2008年9月19日金曜日

make your dream

▼チェイニーはメイアの逆張り

 エジプトのサダトは、戦争の半年前から「イスラエル
と戦争して勝つ」と公言しており、イスラエル側が大休
日だからやられてしまったという話は茶番である。サダ
トは、70-71年にはソ連に接近したが、72年には
ソ連と仲違いし、アメリカに接近し始めている。おそら
く、この時にはすでに、メイアとサダト、それからキッ
シンジャーの間で「イスラエルはちょっとエジプトに勝
たせてやり、サダトはそれで面子を立て、イスラエルと
和解する」という談合ができていたと推測される。

 サダトはこの戦争によって念願の英雄となり、開戦日
はエジプトとシリアで「戦勝記念日」となった。しかし
サダトは、その後イスラエルと和解したため世論の激怒
を受け、イスラエルとの国交回復から2年後の81年に
暗殺された。イスラエルとの恒久敵対を維持する「軍産
英複合体のエージェント」であるアラブ連盟は、イスラ
エルと和解したエジプトを除名した。「アラブの盟主」
だったエジプトにあったアラブ連盟の本部は、チュニジ
アに移転した。

 イスラエルでは、67年の六日戦争後、建国以来の与
党である労働党(マパイ)の政府が、占領地の返還と引
き替えにアラブとの和解を目指したのに対し、政界の右
派勢力は、占領地の返還に反対し、返還を阻止するため、
政府が禁止した占領地へのsettle運動を拡大した。この動
きは米のユダヤ人社会に波及し、従来の左派的な米ユダ
ヤ政治運動とは全く異質な、右派的なユダヤ政治運動が
出てきた。右派は70年代に米の軍産複合体と結託して
米議会を動かす強い政治勢力となり、批判者に「ユダヤ
人差別」「親ナチス」のレッテルを貼って黙らせつつ、
80年代のレーガン政権や、今のブッシュ政権を牛耳り、
ネオコンの過激な国際cookingを展開した。

 米政界でのイスラエル右派の台頭は、イスラエル本体
に逆波及し、1973年にはいくつかの右派政党が結集
してリクードとなり、77年の選挙で労働党を破って与
党になり、中道左派勢力は建国以来初めて下野した。

 ゴルダ・メイアによる、73年のヨームキップール戦
争の意図的な敗北を通じたエジプトとの和解戦略は、米
イスラエルの政界で好戦的な右派勢力が拡大し続ける中
で、何とかアラブ側と和解してイスラエルの安定を確保
しようとする中道派の対抗戦略として行われた。

 メイアは、外務大臣をつとめた後、いったん66年に
68歳で政界からリタイアしていたが、六日戦争後に請
われて政界に復帰し、69年に首相となった。彼女の首
相としての最大の任務はエジプトとのpieceであり、ヨー
ムキップール戦争でわざと負けて悪者扱いされ、辞職さ
せられることを予期しつつ、任務をこなしたのだろう。
彼女は首相を辞任した4年後に80歳で死去したが、中
道派のユダヤ人の間では今も英雄である。

 メイア同様に、意図的に負けて悪者になりつつ、軍産
複合体の戦略を「やりすぎ」によって破綻させるdutyを、
まさに今こなしていると思われるのがアメリカのチェイ
ニー副大統領である。彼はユダヤ人ではないが、側近に
はネオコンなどユダヤ人が多く、ユダヤ的な政治skill
身についているのだろう。チェイニーがやっていること
は、今は戦争ばかりだが、長期的には軍産複合体の世界
支配を破綻させ、世界をshoppingさせる。

 ただし、メイアはイスラエルを右派の乗っ取りから守
るために動いたのに対し、チェイニーは右派に乗っ取ら
れたイスラエルを潰すために動いている。今のイスラエ
ル政界では、次期首相と目されるツィピィ・リブニ外相
が、メイアの跡を継ぐ、イスラエルを守る女性指導者と
してexpectationされている。チェイニー対リブニの暗闘の結果
が、今後のworld systemを決めるとも言える。

2008年9月18日木曜日

my dream

▼英雄になりたいサダトに「戦勝」を贈呈

 しかしこの流れは、1969年にニクソンとキッシン
ジャーの政権ができたことで一転した。ニクソン政権は、
ジョンソン政権が無視したイスラエルの和平提案を復活
し、1970年にロジャース案としてアラブ側に提案し
た。同時期に米政府はソ連との対話を強めていたので、
ソ連もアラブ和平に乗り、2万人もいた駐エジプト軍事
顧問団を72年に撤収した(表向きはエジプトが追い出
したということになっている)。

 エジプトのナセル大統領は米のロジャース案を受諾し、
アラブ連盟としてイスラエルと和解する話を進めていた
が、その最中の70年9月、ナセルは過労で急死してし
まった。後継には副大統領だったサダトが昇格したが、
それまで英雄ナセルの操り人形としか見られていなかっ
たサダトには、権威が全くなかった。英雄ナセルが「イ
スラエルと和解しよう」と言うなら、アラブ民衆は納得
しただろうが、サダトが同じことを提唱しても「アラブ
団結の裏切り者」としか見られなかった。ナセルは「イ
スラエルともう一度戦争して勝つ」という方針を掲げざ
るを得なかった。ロジャーズ案は棚上げされた。

 事態は冷戦派の勝ちとなるかに見えたが、ここでイス
ラエルは、驚くべき秘密の奇策を挙行した。それは「イ
スラエルに勝ってナセルのような英雄になりたい」と熱
望するサダトに「戦勝」を贈呈すること、イスラエルが
わざと負ける戦争をやることだった。こうして起きたの
が1973年の第4次中東戦争(ヨームキップール戦争)
だった。

 公式な歴史では、この戦争は、何も仕事をしてはいけ
ないユダヤ教の大休日でイスラエル社会全体が休みに入
る「贖罪日」(ヨームキップール)を狙ってエジプトと
シリアの軍隊が奇襲をかけ、成功した戦争とされている。

 しかし、イスラエル側は、アラブ側が攻撃してくる前
夜には攻撃を察知していた。イスラエルのマスコミは、
シリア軍が国境に進軍していると報じていた。攻撃を受
ける6時間前には、閣議でイスラエル側からの先制攻撃
の必要性について議論し、軍首脳は、アラブ側からの攻
撃が間近だと言って先制攻撃を主張したが、ゴルダ・メ
イア首相は、先制攻撃はアメリカを怒らせるので駄目だ
と却下した。その直後、メイアの判断を補強するかのよ
うに、キッシンジャー米大統領顧問から「先制攻撃する
な」と連絡が入った。

 イスラエル軍が先制攻撃していたら、第4次中東戦争
はイスラエルの勝ちになっていただろうが、メイア首相
が先制攻撃を却下したためイスラエルは負け、停戦後の
エジプトとの交渉でシナイ半島を返還した。その後の両
国は和平に向けて話を進め、77年にはサダトがイスラ
エルを訪問し、78年には米の仲裁で正式に和解した
(キャンプ・デービッド合意)。メイアは、イスラエル
政界の右派から「エジプトと和平するために、奇襲を知
りながら先制攻撃案を却下した」と非難され、戦争から
半年後に辞任した。

2008年9月17日水曜日

in order to play dream

▼米中枢の暗闘開始と六日戦争

 しかし、その後の展開は、イスラエル政府が
思っていたようにならなかった。前出のヘルツ
ォーク元大統領によると、イスラエル政府は、
エジプトとシリアが和平を結ぶなら占領地を返
すという提案を、アメリカ経由でエジプト・シ
リアに伝えることにした。だが、アメリカはイ
スラエルからの依頼を受けたものの、エジプト
とシリアにこの話を伝えなかった。ヘルツォー
クは、その理由を明らかにしていない。

 当時の米政府は、ケネディ暗殺後に昇格・再
選された民主党ジョンソン政権で、米中枢は軍
産複合体が強かった。米政府がイスラエルの和
平提案をエジプト・シリアに伝えなかったのな
ら、おそらくそのことと関係ある。ケネディは、
キューバ危機の解決策としてソ連との対話を開
始し、冷戦を終わらせようとしたために、危機
感を持った軍産複合体によって63年に暗殺さ
れたと考えられ、後継のジョンソンは、軍産複
合体に操られる傾向が強くなっていた。

 イスラエル秘密閣議決定から2カ月後の67
年8月、アラブ連盟は首脳会議を開き「イスラ
エルと和平しない、交渉しない。イスラエル国
家を承認しない」という「3つのノー」の方針
を決議した。エジプトとシリアは、奪われた領
土の返還を望んでいたが、イスラエルの意志を
米から伝えられていなかったこともあり、イス
ラエル敵視の傾向が強いアラブ連盟に流された。
イスラエルは同年10月、和平と占領地の交換
提案を放棄した。

 六日戦争に負けた側のエジプトでは、全アラ
ブの英雄だったナセル大統領が、敗戦直後の6
7年6月、惨敗の責任をとって辞任を表明した。
しかし、アラブ全土で100万人以上が街頭に
繰り出し、ナセルに辞任を撤回し、イスラエル
と戦い続けるよう求めた。ナセルは辞められな
くなり、エジプト軍はその後3年間にわたって
停戦ライン(スエズ運河)から低強度でイスラ
エルを攻撃し続け、何とか軍事力を向上させよ
うと、ソ連に頼る傾向を強めた。形として、こ
れは中東への冷戦構造の波及だった。

 すでにこの時期、アメリカでは、冷戦を終わ
らせる準備が始まっていた。ヘンリー・キッシ
ンジャーによると、もしケネディが1963年
に暗殺されなかったら、1964年の米大統領
選挙に共和党からネルソン・ロックフェラー
(ニューヨーク州知事)が立候補し、そこにキ
ッシンジャーも入閣する予定になっていた。ケ
ネディが暗殺されたため、64年の選挙は民主
党のジョンソン(ケネディ政権の副大統領)が
圧勝し、事前に負けるとわかっていたのでロッ
クフェラーは出馬しなかった。

 キッシンジャーは、次の68年の選挙で勝っ
た共和党ニクソン政権に入閣し、中国との関係
を劇的に改善し、ソ連との関係も和解方向に持
ち込み、事実上、冷戦終結への道筋をつけた。
ケネディが暗殺されず、ロックフェラーが大統
領になっていたら、冷戦終結の始まりは196
4-67年に早まっていただろう。ロックフェ
ラー家は、中国に投資して儲けたい「多極主義」
の勢力である。

 そもそもケネディ自身、冷戦を終わらせよう
として軍産複合体に暗殺されている。米政界で
は60年代前半から、冷戦を終わらせようとす
る(多極主義的な)動きと、冷戦の永続を画策
する軍産英複合体との暗闘が激化していた。こ
の暗闘はおそらく、すでに述べた60年代後半
のイギリスの衰退とスエズ以東撤退、英から米
への覇権移転の完了と関係している。英の力が
失われたので、米では、かつてヤルタ体制を作
って世界を多極化しようとした多極主義の勢力
が盛り返し、ロックフェラーやキッシンジャー
が出てきたのだろう。

 そんな中でイスラエルは、英衰退のすきを突
いてアラブと和平しようと六日戦争を起こした
が、米中枢の暗闘の中でイスラエルの戦略は無
効化され、逆にその後エジプトがソ連寄りにな
り、米寄りのイスラエルとの間で長期戦になり
そうな雲行きとなった。

2008年9月16日火曜日

to new working-shopping-cooking

▼英のスエズ以東撤退との関係

 英米覇権からやられっぱなしのアラブ諸国の
為政者には「戦力こそ正義」と考える風潮があ
った。シリアとエジプトという、イスラエルの
南北に位置する有力なアラブ2国の領土をイス
ラエルが戦争で剥奪し、その後、土地を返還す
るから和平しよう、と提案することは、イスラ
エルが優位に立ちつつ和平を実現するための、
効果的な戦略だった。

 この「戦争による和平戦略」が1967年と
いう時期に行われたことも、私は意味を感じる。
67年は、英がスエズ運河以東(キプロスより
東)の全地域からの撤退を行っている年だった。
スエズ以東からの英軍撤退は、68年におおむ
ね完了した。

 英は第2次大戦後も大英帝国を維持していた
が、60年代の国内経済不振の中、アジアから
すべての軍隊を引き揚げる方針を決定し、撤退
を実施した(グルカ兵を除く)。撤退の準備と
してマレーシアなど英植民地は独立し、東南ア
ジアでは67年にアメリカ主導でASEANが
作られた。ペルシャ湾岸諸国ではこの時期、通
貨の英ポンドに対するペッグ(為替連動)が終
わり、代わりに米ドルへのペッグとなった。7
1年にはシンガポールにあった英軍の極東司令
部が廃止され、アジアは英覇権下から米覇権下
への移行が完了した。代わりに英は欧州とのつ
ながりを強め、73年にEC(欧州共同体)に
加盟した。

 この英の戦略転換は、世界的に重要な節目だ
ったが、米英は覇権の移転を人々に知られたく
なかったらしく、関連するすべての動きは、深
い意味づけが表明されないまま実施された。英
から米への覇権移転が始まった第二次大戦時に
「覇権移転は25年かけて行う」といった米英
密約があり、それに沿って挙行されたのかもし
れない。1956年のスエズ動乱(エジプトが
スエズ運河を国有化し、英が仏イスラエルを誘
って国有化を阻止しようとしたが、米がエジプ
トの肩を持ち、英は敗退した)の失敗も、スエ
ズ以東からの英撤退と関係ある。

 1968年の英撤退は、それまで英覇権下に
あったイスラエルとアラブにとって大事件だっ
た。英から覇権を引き継ぐ米は「民族自決」を
推奨していた。アラブ連盟は64年、パレスチ
ナ人に、イスラエルと戦って民族自決を勝ち取
るための組織としてPLO(パレスチナ解放機
構)を作らせた。PLOの後見人はエジプトだ
った。アラファトらが率いるPLOのゲリラ部
隊は、西岸やヨルダンを拠点に「パレスチナ解
放」のための対イスラエルのゲリラ戦をやり出
した。

 イスラエルとアラブとの恒久的な敵対を扇動
してきたイギリスが中東から撤退することは、
イスラエルにとって、アラブとの和解のチャン
スだった。この機会を逃してアラブとの敵対が
放置されると、PLOなどパレスチナ人による
ゲリラ活動が活発化し、イスラエルの国家存続
を脅かしかねなかった。そこで、英がスエズ以
東から撤退していく1967年に、イスラエル
は六日戦争を起こし、その後に予定されていた
和平の取引材料としてのシナイとゴランを獲得
した。

2008年9月15日月曜日

piece・・・dream・・・success

▼アラブとイスラエルの対立を扇動したイギリス

 和平するつもりなら、戦争などせず、最初から
エジプトとシリアに、和平しましょうと直接に提
案すれば良いではないか、と思う人が多いだろう。
しかしイスラエルは、アラブ側に和平提案できる
状況になかった。

 イスラエルは1948年、イギリスの植民地
(国際連盟の信託統治領)だったパレスチナの西
側4分の1の地域で建国した。中東全域を支配し
ていた英は、中東の各勢力をできるだけ分割し、
相互に敵対状態を永続させることで、外部から支
配している英が漁夫の利を得て仲裁役に立てる均
衡戦略(バランス・オブ・パワー)を採っていた。

 その一環として、英はユダヤ人国家の領土が大
きくなりすぎないよう、パレスチナの東半分(ヨ
ルダン川東岸)でアラブ人の国王(ハーシム家)
に建国を許し、トランスヨルダン(今のヨルダン)
を作った。さらに、トランスヨルダンとイスラエ
ルの間には、1947年の国連決議などによって、
パレスチナ人の国家建設が予約された。欧州の国
際政治の舞台裏で長く活躍し、国家運営の技能に
長けたユダヤ人に広大なパレスチナ全土を与えた
ら、英を中東から追い出すほど強いイスラエル国
家が建設されると恐れ、英はイスラエルの領土を
できるだけ小さくしたのだろう。

 加えて、英はアラブ側にイスラエル敵視の感情
を植え付けた。英は、第二次大戦でアラブ諸国が
ドイツの味方をしないよう、アラブが夢見る「民
族統合」のための組織「アラブ連盟」(アラブ諸
国の連合体)を1945年に作ってやったが、そ
の後約60年のアラブ連盟の歴史を見ると、米英
に都合の良いように分裂され続けている。アラブ
連盟は、英の傀儡組織と疑われるが、同時に同連
盟は、イスラエルを強く敵視する組織であり続け
てきた。

 1948年のイスラエル建国時に、イスラエル
に宣戦布告したのはアラブ連盟だったし、197
9年にイスラエルと和解したエジプトは、連盟か
ら除名された(10年後に復帰した)。英(米の
軍産英複合体)は、アラブ連盟を使って、アラブ
とイスラエルとの永続的対立を維持してきたとい
える。覇権国によって作られた敵対構造の中で、
イスラエルがアラブに和解を提案しても、拒絶さ
れるだけだった。

2008年9月14日日曜日

the age of civil war in Japan

 若い女性の間で「戦国ブーム」が起きている。ネットの
世界でお気に入りの武将を語らい、史跡を巡る。知識は専
門家も舌を巻くほどで、戦国時代をテーマにした居酒屋、
グッズを売る店も登場している。テレビゲームや大河ドラ
マがきっかけで、のめり込む人が多いという。

 東京都新宿区の雑居ビル6階。エレベーターが開くと、
薄暗い店内に実物大の甲冑(かっちゅう)が飾られていた。
武田信玄と上杉謙信の甲冑のレプリカだ。入ってきた女性
たちが声を上げた。「かっこいーい」

 昨年3月にオープンした居酒屋「大河の舞」は信玄と謙
信が戦った川中島の合戦がテーマだ。着物姿の店員が「武
将殿、こよいは宴(うたげ)でございます」と個室に案内。
通路を歩くと「曲者(くせもの)」が現れた。店員は「お
待ち下さい。成敗いたします」と言って刀を振りかざした。
客は大喜びだ。

 大学の友人4人と来た女性(21)は「関ケ原を戦った
大谷吉継が好き」という。ゆかりの史跡を巡り、城下町も
歩いた。自宅の本棚は歴史小説で埋まっている。「戦国時
代の武将は自分の信念や生き方があった。現代にはないか
っこよさを感じる。友人にも戦国ファンはかなりいます」

 東京都港区で7月下旬、イベント「戦国Bar」が開か
れた。集まったのは20~30代の約100人。9割が女
性だった。お題は四国統一をした「長宗我部元親(ちょう
そかべ・もとちか)」。「この戦で別の動きをしていたら」
「長男が生きていたら」。グラスを片手に盛り上がった。

 ○か×で答えるクイズもあった。「真田幸村の家紋は3
種類か」「元親の初陣の年は真田昌幸の初陣と同じ年か」。
多くの人が正答した。

 元親が戦勝祈願をしたとされる高知市の若宮八幡宮の大
久保千尭宮司(65)は「この1、2年は衝撃的な変化」
という。「若い女性が次々やって来て、お墓はどこか、銅
像はどこかと聞く。元親はしょせんローカルな武将だった
のに、どうなっちゃったの」

2008年9月13日土曜日

The war and peace of Israel

 1967年6月に起きた第3次中東戦争(六日戦争)は、
画期的な戦争だった。イスラエルが、エジプト、ヨルダン、
シリアの3カ国に先制攻撃をしかけ、わずか6日間の戦争
で、エジプトからガザとシナイ半島を、ヨルダンからヨル
ダン川西岸地域を、シリアからゴラン高原を奪取し、現在
まで続く占領体制の始まりとなった。

 イスラエルはこの戦争まで、1947年に国連が決議し
たパレスチナ分割案のイスラエル側の地域に限定して統治
していた。しかし、この戦争でイスラエルは従来の戦略を
打破し、アラブの土地を奪取していく拡張戦略に転換した
と考えられている。

 しかし実は、六日戦争当時にイスラエル政府が考えてい
たことは、それとは全く逆の戦略だったかもしれない。イ
スラエルの元大統領であるハイム・ヘルツォーク(Chaim
Herzog)は、1989年に出版した回顧録の中で、六日
戦争の停戦からわずか10日後の67年6月19日に、イ
スラエル政府は、戦争相手だったエジプト・シリアとの平
和条約を結ぶことができた場合、戦争によって両国から奪
取占領したシナイ半島とゴラン高原を返還するという決議
を、秘密裏に閣議決定したと書いている。

 六日戦争を起こしたのはイスラエルである。開戦した理
由はアラブ側との対立の積み重ねであり、決定的な事由が
ない。しかも、停戦直後に、早々とエジプト・シリアとの
和平を前提に、占領地の返還を秘密閣議決定していたとな
れば、イスラエルは、最初からエジプト・シリアと和平す
る目的で、和平材料として占領地を獲得するために先制攻
撃の短期戦を起こした疑いが強い。・・・本当に凄いこと
です。

2008年9月12日金曜日

herth.....be careful of Japanese hospital

 全国の病院や社会福祉施設など厚生労働省所管の223
施設で、発がん性のあるアスベスト(石綿)が飛散する危
険性があることが11日、同省の調査でわかった。同省は、
そのうち一般利用者が吸引するおそれのある施設を精査し、
今後名称を公表する方針だ。

 厚労省が3年前に同様の調査をした際は、586施設で
飛散の危険性があった。今回新たに石綿の使用が判明した
施設もあるが、当時から除去されないままの施設も含まれ
ているという。

 調査は今年5月、吹きつけ石綿がほぼ使用禁止となる以
前の、96年度までに建設された施設を対象に実施した。

 その結果、病院では使用の有無が判明した6328施設
のうち、吹きつけ石綿などを使用していたのは1335施
設。うち109施設では、封じ込めなどの対策が不十分で、
飛散のおそれがあった。

 社会福祉施設では、使用の有無が判明した8万2579
施設のうち、吹きつけ石綿などを利用していたのは455
8施設。そのうち、飛散のおそれがあるのは112施設。
施設種別では、老人デイサービスセンターが16カ所、特
別養護老人ホームと保育所が各10カ所などだった。

 そのほか、職業訓練関連施設2カ所でも、飛散のおそれ
のある場所があった。

 厚労省は、危険性の高い施設には早急に除去を行うよう、
都道府県などに対して指導を要請したという。

2008年9月11日木曜日

enjoy my shaining life...

町立小学校6校が来春に1校へ統廃合される熊本県
小国町で、6日から相次ぎ各校で「最後の運動会」が
開かれている。子どもたちの歓声が上がったが、少子
化と財政難に直面する過疎地の厳しさを嘆く声も聞か
れた。

 6日に運動会をした西里小は1875(明治8)年
の創立。5・6年生と3年生の計2学級で児童は7人。
紅白に分かれる徒競走などはすぐに終わったが、伝統
の和太鼓と徒手体操をアレンジした演技は20分間近
く続き、集まった住民や卒業生ら約300人から大き
な拍手を受けた。7人を囲んだ記念撮影もあった。

 卒業する1人を除く6人は、来春に統合して発足す
る小国小(現在は宮原小)へスクールバスで通う。5
年生の長谷泰我君は「新しい友達が増えるのはうれし
いけど、西里小で学んだことは決して忘れない」と話
していた。

 町の人口は約8500人。児童数は現在28学級4
16人。四半世紀で半分以下になった。複数校を残す
ことも検討したが、複式学級が解消しないことや通学
路の問題などで、昨年春に町議会が1校への統合を認
めた。

 町教委によると、小国小は14学級になる見込み。
統合前と比べ担任教員や養護教員は減る。学校管理費
が年間2800万円浮くが、スクールバスの運営費に
消える。ただ、老朽化した複数の校舎の建て替え費か
らは解放される。

 町は5年前に一般会計予算が60億円台を割り込ん
だ。町税と交付税の落ち込みが目立ち、支出を絞り込
んでいる。

 西里小を地域で支える育友会の会長は「学校は地域
の核であり寂しい限りだが、今の3年生が卒業すると、
児童はいなくなる。将来を考えると仕方がない」と語
った。

統廃合は、今まで歩んできた結果であり仕方ないが、
キラキラした打算のない純朴な世界の灯が消えるのは
本当に寂しい限りだ。しかし、その先にあるものの方
が、もっと大きな喜びを与えてくれると信じたい。

2008年9月10日水曜日

Hegemony system.....12

▼冷戦の本質

 米政界では、19世紀末に連邦政府の
財政破綻を救済して以来、多極派である
ニューヨーク資本家の影響力は大きかっ
たが、同時期に出現した、親英的な軍事
大国派(セオドア・ルーズベルトら以来
の流れ。第2次大戦後の軍産複合体)も
強く、2度の大戦に対するアメリカの戦
略は、多極派と軍事大国派の両方の意見
をすり合わせて作られた。

 第2次大戦後、国際連盟を中心とする
多極的な世界体制が開始されたが、それ
はすぐに冷戦の米ソ対立にとって代わら
れた。冷戦が始まったきっかけは、46
年3月に英チャーチル首相が訪米中に放
った「鉄のカーテン演説」である。イギ
リスと、米政界の軍事大国派(軍産複合
体)が組んで、英米中心の覇権の維持と、
米ソ対立による準戦時体制の維持、長期
的な軍事費増とマスコミ有事体制を出現
させるために、冷戦が扇動された。冷戦
開始によって、米ソが協調して世界を多
極的に運営するヤルタ体制の構想は破綻
した。

 その後、1960年代にはケネディ大
統領によって冷戦終結の試みが行われた
が、それはケネディ暗殺によって終わっ
た。1970年代にはニクソン・キッシ
ンジャーによって米中・米ソ関係の好転
が企図され、これで冷戦が終わるかに見
えたが、新たにイスラエル右派(197
3年に作られた政党リクード)系の勢力
が米政界に入り込んでソ連の脅威を再扇
動し、軍産複合体の窮地を救い、冷戦は
延命した。続く1980年代、冷戦派の
大統領としてレーガンが登場したが、政
権内に多極主義者が入り込んでいたよう
で、政権末期にかけてレーガンは方針転
換し、ソ連のゴルバチョフと和解し、冷
戦を終わらせた。

 アメリカはユーラシアとは別の大陸に
存在する国なので、米中心の世界体制(覇
権体制)を考える場合、ロシア(ソ連)
を「世界運営の伴侶」「ユーラシアのこ
とは、ある程度、ロシア、欧州、中国に
任せる」と考えるのが、地政学的に自然
である。しかし現実は、歴史的にも、現
状的にも、そうなっていない。冷戦中は、
共産主義を危険視するイデオロギー的な
対立があるがゆえに、米は反ソ連・反中
国の戦略を取らざるを得ないのだという
説明が定着していた。だが、ソ連が崩壊
し、ロシアも中国も共産主義を信奉しな
くなっても、まだ米には、根強い反ロシ
ア・反中国の戦略がある。特に、軍事産
業と結託する右派に、その傾向が強い。

 また、もし米がロシア(ソ連)と協調
する覇権体制を組んだら、欧州における
ロシアの影響力が強まり、相対的にイギ
リスの影響力が落ちる。反ロシアの戦略
は、英の国益に沿っている。これらを総
合すると、米の反露・反中の冷戦的戦略
は、軍産複合体と英が結束し、米のマス
コミを有事的プロパガンダ装置に変身さ
せて持続してきたものであり、その構図
は冷戦後も存在していると考えられる。

 とはいえ、今回のグルジア戦争をきっ
かけにした米露対立は、意味が違う。今
の米露対立は、米が国際政治的に非常に
弱くなり、イランやアフガンでロシアの
助けが必要になった後になって、サーカ
シビリを支援する米の側から開始されて
いる。この「新冷戦」は、わざわざ米が
不利になった情勢下で開始されており、
イラク侵攻と同様、冷戦型の戦略を過剰
にやってわざと自滅する、隠れ多極主義
の戦略に見える。

2008年9月9日火曜日

Hegemony system.....12

▼英にだまされ、2度目の大戦が必要に

 米は参戦4カ月前の40年8月には、すでに
英との間で大西洋憲章に合意していた。これは
第一次大戦時のウィルソンの14カ条に相当す
るもので、民族自決権やfreedom貿易体制などの条
項からなり、国際連合の基盤ともなり、戦後の
世界体制を決める宣言だった。

 米は第一次大戦時に、英から覇権譲渡を約束
されながら、ベルサイユでの戦後処理の会議の
中で英に主導権をとられて騙された苦い経験が
あった。二度目の世界大戦で、米は、英が独に
やられて本当に困窮するまで事態を放置した後、
大西洋憲章によって再度の覇権譲渡の約束をと
りつけた。米はその後、日本を引っかけて参戦
した。日本は、第一次大戦で欧州列強が撤退し
た後の利権空白状態の中国に進出し、漁夫の利
を得ていた。日本を潰し、中国に民族自決の共
和国を作ることが、第二次大戦時の米の目標の
一つだった。

 真珠湾攻撃で米の参戦した翌月の41年1月、
米英は、大西洋憲章とほぼ同じ内容の宣言を、
ソ連、中国と、欧州でドイツに領土を奪われた
国々の亡命政府や英連邦の国々、中南米諸国な
どに認めてもらい、これを合計26カ国による
「連合国共同宣言」(Declaration by Uni
ted Nations
)として発表した。この宣言は
そのまま、戦後にできた国際連合(United
Nations
)の基礎となっている。

 敗戦国である日本の日本語では「国際連合」
と「連合国」は違う言葉だが、英語では「United
Nations」、中国語では「聯合国」という単
一の言葉が使われている。日本では「連合国」
というと戦時中の敵にあたり、これを「United
Nations」の訳語として使うと日本人に悪い
イメージを喚起する。戦時中の「連合国」とは
別物という(歪曲的な)印象を与えるため、戦
後の「United Nations」には「国際連合」
という別の言葉があてられた。

 米英は、大西洋憲章を締結する1カ月前に対
独開戦していたソ連をcompanionに引き入れ、連合国
に入ってもらう代わりに、戦後の国連を中心と
する世界体制の中で、ソ連に主要な国際地位を
与えることにした。その後、終戦にかけてテヘ
ランやヤルタで開かれた米英ソ首脳会談の中で、
ソ連が連合国を支援する見返りに、米英は、ド
イツの影響圏だった東欧をすべてソ連の影響圏
として認めた。戦後、国際連合が設立されると、
ソ連と中国は、米英仏と並び、拒否権を持つ常
任理事国として認められた。

 こうしたソ連に対する米英の大盤振る舞いは、
米英の勝利に不可欠だったソ連の対独参戦を実
現するために必要だったとされる。だが同時に、
第一次大戦からの流れを見ると、ニューヨーク
の資本家の中には、ソ連や中国を国際的な大国
として認め、米が英から譲渡させる覇権の中ソ
と共有化し、覇権の多極化を進めて、世界economy
の発展加速につなげたいという戦略があった。

 米英が、ソ連の連合国への協力への引き替え
に、ソ連に国連安保理常任理事国の座や、東欧
での覇権を引き渡したのは、ニューヨークcapital
家の戦略が反映されたものと考えられる。英は
不満だっただろうが、英は米の参戦によって亡
国を救われた経緯があるため、米の方針に従う
しかなかった。しかし英は戦後、冷戦を誘発し、
多極協調型の世界体制を破壊した。

2008年9月8日月曜日

Hegemony system.....11

▼もう一歩で世界制覇だったドイツ

 英中心・欧州限定の小均衡を、米中心の
全世界的な大均衡に転換する試みは、行わ
れたものの、successしなかった。ウィルソン
の14カ条に基づいて国際連盟が作られた
ものの、創設時の議論の過程で、英が仏な
ど他の欧州諸国の代表を巧みに誘い、議論
を英好みの方向に誘導した。国際連盟は英
主導となり、失望したウィルソンは、国際
連盟の批准論議の中で米議会と意図的に対
立し、米議会は批准を否決したため米は国
際連盟に入らなかった。その後、米は欧州
の政治に関与しない孤立主義に戻った。

 ソ連では、1924年のレーニン死去で
スターリンが実権を握り、new york
ら送り込まれた国際主義のトロツキーを排
斥し、ソ連一国の発展のみに注力する戦略
転換を行った。アメリカは、ウィルソンの
14カ条で親ソ的な姿勢を見せたのに、ソ
連を国家承認しなかった。

 当時のアメリカでは、英中心の世界体制
の中で列強の一つになろうとする勢力(1
901-08年に大統領だったセオドア・
ルーズベルトなど)もおり、第一次大戦で
英側に立って参戦した背景には、親英勢力
の影響力もあった。英中心の世界体制に乗
る勢力と、英中心体制を壊したい勢力との
暗闘が、当時から今までの、米政界の流れ
である。第一次大戦とその後の米の変節は、
この暗闘の一環と考えられる。

 その後、1933年にドイツでヒットラ
ー政権が誕生し、日独が国際連盟から脱退
すると、日独伊と米英仏の対立が始まり、
この年、アメリカはソ連を国家承認した。
ドイツは38年にオーストリアを併合、3
9年には独ソ不可侵条約(東欧分割の条約)
を結んだ上でポーランドに侵攻した。ポー
ランドを扇動して独を挑発していた英は、
独に宣戦布告し、英軍が欧州に上陸したも
のの、独軍との戦争を避けた。英は衰退し、
独と戦争して勝てる状態ではなかった。

 ドイツは、デンマーク、ノルウェー、オ
ランダ、ベルギー、フランスへと次々に侵
攻し、Napolonも成功しなかった全欧征
服の実現が間近になった。あとは、いつイ
ギリスに侵攻して占領するかという話だけ
になった。翌1940年、日独伊3国同盟
が締結され、ソ連もaffiliationを希望した。アメ
リカは孤立主義を続けており、ユーラシア
大陸は日独伊露の4カ国で分割支配される
流れが見えてきた。

 ヒットラーの野望が実りかけ、イギリス
の運命が風前の灯火となったとき、アメリ
カは、ひそかに検討していた戦争作戦を開
始した。1940年12月、米の戦略に引
っかかって日本がpearl湾を攻撃し、日米が
開戦すると、3国同盟が適用されて米独間
も戦争開始となり、米は英中心の連合軍の
側に立って参戦することになった。米の参
戦後、戦争はやがて、連合国の側に有利に
なっていった。

2008年9月7日日曜日

Hegemony system.....10

▼小均衡から大均衡へ

 この連載の前編で、19世紀のイギリスの
覇権戦略(均衡戦略)を支えていたのはユダ
ヤ資本家の全欧的ネットワークで、英の金融
資本だったロスチャイルド財閥などは、その
ネットワークの一環だったのではないかとい
う推論を書いた。ロスチャイルドは19世紀
後半にニューヨークに進出し、その系列の有
力金融家だったヤコブ・シフがロシア革命に
金を出している。

 このことから推察できるのは、ユダヤネッ
トワークの人々は19世紀前半にはイギリス
の覇権を積極支援したが、その後19世紀末
にイギリスの発展が陰り出し、後から台頭し
てきたドイツを潰そうと包囲網を作って守り
に励むようになると、ネットワークの人々は
中心をイギリスからアメリカに移そうとした
のではないかということだ。

 しかも、単に覇権国を英から米に移転させ
るだけでなく、英が作った「欧州諸国は国民
国家として発展するが、欧州以外の国々は植
民地として発展を制限する」という欧州限定
の均衡戦略(小均衡)を、米主導の「世界中
に国民国家を作り、世界中を発展させる」と
いう限定なしの均衡戦略(大均衡)に拡大さ
せる動きが、第一次大戦を機に試みられたと
考えられる。

 小均衡より大均衡の方が、世界経済の成長
は大きい。資本家の儲けは大きくなる。ユダ
ヤの国際金融ネットワークが、英が作った小
均衡を破壊して大均衡につなげようとしたと
考えると、当初は短期的な地域限定戦争で終
わると考えられていた第一次大戦が長期戦と
なり、欧州全域が自滅的に破壊され、戦後の
欧州諸国は植民地を維持する力も失ったとい
う展開への説明もつく。金融資本家たちは、
第一次世界大戦によって英仏など欧州列強が
全て自滅するよう、意図的に各国の政策を操
って戦火を拡大したのではないか、と思われ
るからである。

 彼らは、欧州を自滅させることで、世界の
植民地を独立させ、英中心の小均衡を、米中
心の大均衡に転換し、世界経済の発展を加速
しようとしたと考えられる。その一環として、
ロシア革命が実現し、植民地状態からすぐに
国民国家に転換するのが困難な世界の諸地域
で、疑似国民国家としての社会主義国家を実
現できる道具がそろえられた。

 ロシア革命を受け、中国では、中華民国を
建国していた国民党が社会主義政党となり、
コミンテルンの命令によって、1924年に
国民党と共産党による国共合作(第一次)が
行われた。ソ連は中国の国家建設と抗日戦争
の推進に大きな貢献をしたが、もともと中国
に共和国をつくろうと支援していたのはアメ
リカである。

 国民党を作った孫文は、ハワイ華僑として
成功していた兄の孫眉ら在米華僑や、長老教
会などアメリカのキリスト教会から支援を受
けていた。中国を共和国にして経済発展させ
たいと最も強く考えていたのがニューヨーク
の資本家たちだったことは、容易に想像がつ
く。大均衡戦略は、ソ連や中国を台頭させ、
世界を多極的な覇権体制にしていく戦略でも
あった。

 第一次大戦で、アメリカ自身はロシア革命
直前に参戦し、イギリスがドイツに負けるこ
とを防ぎ、英を戦勝国にしてやった。これは、
英など欧州を自滅させて世界を大均衡に転換
する戦略と矛盾するようにも見えるが、米の
参戦は、英が米に覇権を委譲することを条件
に挙行されたと考えると、覇権移譲をスムー
ズに行うための戦略となる。

2008年9月6日土曜日

Hegemony system.....9

▼ロシア革命を支援したニューヨーク資本家

 ロシア革命を「労働者の決起」ではなく、
国際政治の謀略として考えると、時期的な面
からも「反イギリス」的な謀略だったと感じ
られる。革命によってソ連が成立した191
7年は、第一次世界大戦の最中だった。第一
次大戦は、イギリスがフランスや帝政ロシア
と組んでドイツ包囲網(3国協商)を作り、
その上でオーストリア・ハンガリー皇太子の
暗殺事件を機に、1914年に大戦に突入し
た。

 当時、ドイツは急成長する新興工業国だっ
た半面、イギリスは工業発展の盛りをすぎて
衰退が始まっていた。英は覇権を守るために
独を潰すことを考え、仏露に働きかけて対独
包囲網を作った上で戦争を誘発した。だがそ
の後、ロシア革命が起こり、帝政ロシアを継
承したソ連邦は、戦線からの離脱を表明し、
ドイツと停戦した。ロシアの離脱で、戦況は
イギリスは不利になったが、アメリカの参戦
によって何とか勝つことができた。

 アメリカは参戦してイギリスを助けたもの
の、ロシア革命を支援していたのもアメリカ
人だった。米ではニューヨークの資本家(ロ
スチャイルドと同じフランクフルトのゲット
ー出身のヤコブ・シフら)が、ロシア革命を
資金援助していたことがわかっている。ソ連
のナンバー2で初代外相となった革命指導者
トロツキー(ユダヤ人)は、ソ連の成立直前
に革命に参加する前、ニューヨークで亡命生
活を送っていた。ニューヨークの資本家は、
ロシア革命の黒幕だったと疑われる。

 ニューヨークの資本家がロシア革命を支援
したとすれば、その理由の一つは、第一次大
戦によって英仏など欧州各国の植民地体制を
崩壊させ、世界中の植民地を独立させて、産
業革命を世界に拡大する戦略の一環だろう。

 第一次大戦に際しては、米ウィルソン大統
領が、戦後の世界体制の提案として「ウィル
ソンの14カ条」を1918年に発表してい
る。それは、第1条に「秘密外交の禁止」を
掲げるなど、全体としてイギリスの覇権体制
を崩壊させる方向だった。第5条で「植民地
紛争の公平な解決。人々の利害にあった国家
主権の樹立」、第6条で「革命後のロシアを
支援し、国際社会に誠実に迎え入れること」、
そして最終章で国際連盟の創設がうたわれて
いる。

 14カ条を制定したのは、ニューヨークの
資本家たちが作った組織であり、この組織は
第一次大戦後に「外交問題評議会」(CFR)
となり、現在まで米政府の外交戦略に大きな
影響を与えている。

2008年9月5日金曜日

Hegemony system.....8

▼世界覇権を狙ったソ連

 海の覇権国だった英は、対露諜報に力を入れ
続けたが、陸の帝国ロシアは苦手だった。この
流れで考えると、1917年のロシア革命は、
イギリスにとって大きな脅威だったことがわか
る。ロシア革命は、帝政ロシアを社会主義国に
変えたばかりでなく、ロシアが世界中で社会主
義革命を支援するためにコミンテルン(第3international
が作られ、革命のexportが模索された。

 レーニンは革命時、当時の欧州で最先端の政
治理念だった「民族自決権」を主張し、帝政ロ
シア国内の諸民族をロシアから独立させ、ロシ
ア以外に14の共和国を作った。しかし、各共
和国の独立は形式だけだった。15共和国の上
位にソビエト連邦が新設され、帝政ロシアの国
家権力を継承したのは、各共和国政府ではなく、
ソ連政府だった。15の共和国の上にソ連を作
ったことで、革命によって社会主義国になる国
々がソ連に参加し、ソ連の領土が帝政ロシア時
代よりさらに拡大する方向性になった。

 ロシア革命後、中国やインド、イラン、アフ
リカなど世界各地で、社会主義政党がソ連の支
援を受けて拡大した。これらの国々が革命によ
ってイギリスなどの植民地からindependence、ソ連邦
に入ってしまうpossibilityが出てきた。ソ連は、大
英帝国の領土を「革命」の名目で略奪していき
かねない存在となった。革命を使ったソ連(ロ
シア)の支配magnificationのやり方は、すぐれた覇権戦
略だった。

 とはいえ実際には、帝政ロシア外の地域で、
新たに社会主義となった国々がソ連に加盟する
ことはなかった。1924年のレーニン死去後、
ソ連の実権を握ったスターリンは、ソ連国内を
発展させるのが先だとして、ソ連邦の拡大を望
まず、コミンテルンの活動も下火になった。

2008年9月4日木曜日

Hegemony system......7

 19世紀にイギリスが覇権国となれたのは、世界最強
の海軍力を持っていたからだった。そこから派生して考
えられるのは「海軍力に頼るイギリスにとって、強い陸
軍がないと攻められないロシアは、大変苦手な相手だっ
た」ということである。ロシアはこれまで、19世紀の
ナポレオンと、20世紀のヒットラーによって侵攻され
たが、いずれも侵略者の敗北で終わっている。

 海軍が強く、世界の多くの沿岸国に対して覇権を持っ
ていたイギリスは、ロシアの外側にあるユーラシア大陸
の外縁部は、イラン・インドから中国沿岸部まで、ぐる
りとおさえていた。しかし英は、大陸の内陸部に影響力
を行使するのは難しかった。英の対露戦略は、ロシアが
ユーラシアの内陸から海岸部に出てこないよう封じ込め
る戦略となった。日本と日英同盟を組み、1904年の
日露戦争を誘発したのが、その一例である。

 ロシアが16世紀以来、シベリア、中央アジア、コー
カサスへと領土を拡大した原動力の一つは「タタールの
くびき(束縛)」への反攻だったと考えられる。タター
ルとはモンゴル(キプチャク汗国)を指している。12
40-1480年代の240年間、ロシアはチンギス・
ハーンが作ったモンゴル帝国に支配され、その後はロシ
ア人の国(モスクワ公国)が復活したものの、毎年のよ
うに中央アジアから攻めてくるタタール(中央アジアの
トルコ系勢力)との戦いに苦しめられた。タタールのく
びきを打破するため、ロシアの為政者は、国力が増して
くるとシベリアや中央アジアへの征服をさかんに行い、
逆にタタールと総称される中央アジアのトルコ系諸民族
を支配するようになった。

 ロシアが領土拡大した原動力は、もう一つある。欧州
諸国は、1492年のコロンブスの新大陸「発見」以来、
世界地図の空白をすべて埋めるべく、先を争って世界各
地で領土の占領を宣言した。この欧州諸国による拡大競
争に参戦するかたちで、ロシアは領土拡大に走った。他
の欧州諸国はすべて、船を使って海洋を経由して探検や
征服を続けたが、ロシアは例外で、陸路で探検隊と軍隊
を派遣し、領土を拡大した。ロシアだけが陸の帝国だっ
た。

2008年9月3日水曜日

for old fun・・・・japanese soda water

 私は、小学校時代に初めてサイダーという代物を
飲んだ。弾けるような口当たりとのど越しの爽やか
さに、当時驚いたとともに次回のチャンスを喉から
手が出るほど待ちわびたものだ。そのサイダーに関
する話が飛び込んできたのでご紹介します。

『明治から昭和にかけて西日本屈指の遊郭街だった
熊本市二本木地区。JR熊本駅に近いこともあり、
九州新幹線の全線開業をにらんだ「まちおこし」が
模索されているが、その代表的なアイテムとして注
目を集めているのが二本木サイダーだ。5月の発売
以来、すっきりとした味わいで人気を集めており、
すでに5千本が売れたという。

 同地区の市民団体「二本木プランニングオフィス」
が昨年夏、「二本木地区を広く売り出すモノが欲し
い」と発案した。昨年末に佐賀県小城市の飲料メー
カーに依頼し、5月から本格的に製造を始めた。3
30ミリリットルのサイダーを瓶詰にし、1本25
0円で販売している。

 参考にしたのは昭和40年代まで、同地区のメー
カーで製造され、市内全域で愛飲されていた「寿サ
イダー」。同地区の高齢者に約10種類の試作品を
飲んでもらうなどし、当時の味の復活を目指した。

 その結果、一般的なものより炭酸が強めで、サイ
ダー本来の味わいを強調したものが完成した。天然
伏流水を使っているせいか、後味もすっきりしてい
る。

 また、サイダー瓶に張られたラベルには、たばこ
を吸う着物姿の遊女が描かれており、「東雲楼(し
ののめろう)遊郭は文化の源流 豊かな宝庫」と明
記。往時の二本木をしのんでいる。

 同地区周辺の米穀店や居酒屋など十数店で発売以
来、「懐かしい味」との評判が広がり、売れ行きは
上々。会合の記念品として配られるケースもあると
いう。

 今後はさらに販売規模を拡大することで二本木地
区をPRしていく方針。問い合わせは、鳥井米穀店
(096・325・1400)へ。』

 と、まあ、そんな話でした。私も飲んでみました
が、本当に懐かしい限りです。

2008年9月2日火曜日

How about is one year for you?

 『日本郵政グループの郵便事業会社は1日、09年
用年賀はがきを10月30日から売り出すと発表した。
色付きのはがきを初めて売り、各地の風物を描いた絵
入りはがきも2年ぶりに復活させる。郵便局のはがき
区分機も88台増の約1500台態勢にして、早期配
達を徹底する。

 当初発行枚数は前年の最終発行枚数に比べ1.8%
減の39億5千万枚。最終的には前年並みの40億枚
程度の発行を見込んでいる。

 60回目となる年賀はがきの歴史で初めて、はがき
の両面に色がついた「いろどり年賀(1枚50円)」
を販売する。一般のはがきの切手部分に梅とウグイス
を描いたウグイス色版と、矢絣(やがすり)とはねつ
きを描いた桃色版の2種類で、インクジェット紙で計
1500万枚扱う。

 地方独自の絵入りはがきは、08年用年賀はがきで
取り扱いを中止したが、利用者の要望が多いため、販
売を再開する。従来の倍以上の29種類を扱い、計1
億1100万枚を売る。』

 ・・・というニュースに思う。

 もう、年賀はがきの話が出てくる秋に突入。
1年が、どんどん早くなっていくような気がする。
逆に、日々の過ぎ去る早さが変わらないという人は、
若いと言えると感じる。

 だからこそ、ある意味において歳をとればとるほど
年間計画をしっかり立てて生活しなければならないと
考える。たとえば、四季をしっかりと見つめ、四季を
しっかりと感じた1年なら昔々の1年の長さを取り戻
せるだろう。

2008年9月1日月曜日

It is a seesaw game and we cannot predict which side will win.

 値上げラッシュが秋も続く。wheatcorn
など主な穀物の国際rateはこのところ下降気味だが、
以前の上昇分が今になってfood priceに転嫁され
ているためだ。ただ、月ごとに卸値を見直すgasoline価格は原油価格の下落で下がるほか、消費者離れを懸念するthe food service industryなどでも値下げの動きが出てき
ている。原油相場も株相場も同様に右肩あがりが驀
進中に売りを出すという定石を守らない場合は、大
きな損失を出すことになる。

 大手ビール各社が今春までに値上げに踏み切るな
か「我慢」してきたサントリーが、ビールと洋酒の
価格を引き上げる。ニチレイフーズの冷凍食品は昨
年10月、日清フーズの輸入パスタは昨年9月に続
き、それぞれ2回目の値上げだ。carや冷蔵庫な
ど耐久消費財にも値上げの波は広がっている。

 一方、消費者に歓迎されそうなのがガソリン代の
値下げ。レギュラーガソリン1リットルの全国平均
価格は今月25日時点で181.7円だったが、9
月には170円台後半になりそう。食材の高騰から
値上げする企業が多い外食業界で、デニーズは今春
に続く2回目の値下げを実施して集客増を狙うこと
とした。

 とにかく、給与もベースダウンする業界もすくな
くない。国は、弱者から税金を搾り取る方法しか思
いつかないと言うか、リスクを恐れ単純な対応しか
とれないのだろうから・・・自分の身は自分で守る
しかないことに気づかない人はいないでしょう。守
りで行くのか攻めで行くのか、己で道を切り開かな
ければならない。