▼英雄になりたいサダトに「戦勝」を贈呈
しかしこの流れは、1969年にニクソンとキッシン
ジャーの政権ができたことで一転した。ニクソン政権は、
ジョンソン政権が無視したイスラエルの和平提案を復活
し、1970年にロジャース案としてアラブ側に提案し
た。同時期に米政府はソ連との対話を強めていたので、
ソ連もアラブ和平に乗り、2万人もいた駐エジプト軍事
顧問団を72年に撤収した(表向きはエジプトが追い出
したということになっている)。
エジプトのナセル大統領は米のロジャース案を受諾し、
アラブ連盟としてイスラエルと和解する話を進めていた
が、その最中の70年9月、ナセルは過労で急死してし
まった。後継には副大統領だったサダトが昇格したが、
それまで英雄ナセルの操り人形としか見られていなかっ
たサダトには、権威が全くなかった。英雄ナセルが「イ
スラエルと和解しよう」と言うなら、アラブ民衆は納得
しただろうが、サダトが同じことを提唱しても「アラブ
団結の裏切り者」としか見られなかった。ナセルは「イ
スラエルともう一度戦争して勝つ」という方針を掲げざ
るを得なかった。ロジャーズ案は棚上げされた。
事態は冷戦派の勝ちとなるかに見えたが、ここでイス
ラエルは、驚くべき秘密の奇策を挙行した。それは「イ
スラエルに勝ってナセルのような英雄になりたい」と熱
望するサダトに「戦勝」を贈呈すること、イスラエルが
わざと負ける戦争をやることだった。こうして起きたの
が1973年の第4次中東戦争(ヨームキップール戦争)
だった。
公式な歴史では、この戦争は、何も仕事をしてはいけ
ないユダヤ教の大休日でイスラエル社会全体が休みに入
る「贖罪日」(ヨームキップール)を狙ってエジプトと
シリアの軍隊が奇襲をかけ、成功した戦争とされている。
しかし、イスラエル側は、アラブ側が攻撃してくる前
夜には攻撃を察知していた。イスラエルのマスコミは、
シリア軍が国境に進軍していると報じていた。攻撃を受
ける6時間前には、閣議でイスラエル側からの先制攻撃
の必要性について議論し、軍首脳は、アラブ側からの攻
撃が間近だと言って先制攻撃を主張したが、ゴルダ・メ
イア首相は、先制攻撃はアメリカを怒らせるので駄目だ
と却下した。その直後、メイアの判断を補強するかのよ
うに、キッシンジャー米大統領顧問から「先制攻撃する
な」と連絡が入った。
イスラエル軍が先制攻撃していたら、第4次中東戦争
はイスラエルの勝ちになっていただろうが、メイア首相
が先制攻撃を却下したためイスラエルは負け、停戦後の
エジプトとの交渉でシナイ半島を返還した。その後の両
国は和平に向けて話を進め、77年にはサダトがイスラ
エルを訪問し、78年には米の仲裁で正式に和解した
(キャンプ・デービッド合意)。メイアは、イスラエル
政界の右派から「エジプトと和平するために、奇襲を知
りながら先制攻撃案を却下した」と非難され、戦争から
半年後に辞任した。

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