2008年9月17日水曜日

in order to play dream

▼米中枢の暗闘開始と六日戦争

 しかし、その後の展開は、イスラエル政府が
思っていたようにならなかった。前出のヘルツ
ォーク元大統領によると、イスラエル政府は、
エジプトとシリアが和平を結ぶなら占領地を返
すという提案を、アメリカ経由でエジプト・シ
リアに伝えることにした。だが、アメリカはイ
スラエルからの依頼を受けたものの、エジプト
とシリアにこの話を伝えなかった。ヘルツォー
クは、その理由を明らかにしていない。

 当時の米政府は、ケネディ暗殺後に昇格・再
選された民主党ジョンソン政権で、米中枢は軍
産複合体が強かった。米政府がイスラエルの和
平提案をエジプト・シリアに伝えなかったのな
ら、おそらくそのことと関係ある。ケネディは、
キューバ危機の解決策としてソ連との対話を開
始し、冷戦を終わらせようとしたために、危機
感を持った軍産複合体によって63年に暗殺さ
れたと考えられ、後継のジョンソンは、軍産複
合体に操られる傾向が強くなっていた。

 イスラエル秘密閣議決定から2カ月後の67
年8月、アラブ連盟は首脳会議を開き「イスラ
エルと和平しない、交渉しない。イスラエル国
家を承認しない」という「3つのノー」の方針
を決議した。エジプトとシリアは、奪われた領
土の返還を望んでいたが、イスラエルの意志を
米から伝えられていなかったこともあり、イス
ラエル敵視の傾向が強いアラブ連盟に流された。
イスラエルは同年10月、和平と占領地の交換
提案を放棄した。

 六日戦争に負けた側のエジプトでは、全アラ
ブの英雄だったナセル大統領が、敗戦直後の6
7年6月、惨敗の責任をとって辞任を表明した。
しかし、アラブ全土で100万人以上が街頭に
繰り出し、ナセルに辞任を撤回し、イスラエル
と戦い続けるよう求めた。ナセルは辞められな
くなり、エジプト軍はその後3年間にわたって
停戦ライン(スエズ運河)から低強度でイスラ
エルを攻撃し続け、何とか軍事力を向上させよ
うと、ソ連に頼る傾向を強めた。形として、こ
れは中東への冷戦構造の波及だった。

 すでにこの時期、アメリカでは、冷戦を終わ
らせる準備が始まっていた。ヘンリー・キッシ
ンジャーによると、もしケネディが1963年
に暗殺されなかったら、1964年の米大統領
選挙に共和党からネルソン・ロックフェラー
(ニューヨーク州知事)が立候補し、そこにキ
ッシンジャーも入閣する予定になっていた。ケ
ネディが暗殺されたため、64年の選挙は民主
党のジョンソン(ケネディ政権の副大統領)が
圧勝し、事前に負けるとわかっていたのでロッ
クフェラーは出馬しなかった。

 キッシンジャーは、次の68年の選挙で勝っ
た共和党ニクソン政権に入閣し、中国との関係
を劇的に改善し、ソ連との関係も和解方向に持
ち込み、事実上、冷戦終結への道筋をつけた。
ケネディが暗殺されず、ロックフェラーが大統
領になっていたら、冷戦終結の始まりは196
4-67年に早まっていただろう。ロックフェ
ラー家は、中国に投資して儲けたい「多極主義」
の勢力である。

 そもそもケネディ自身、冷戦を終わらせよう
として軍産複合体に暗殺されている。米政界で
は60年代前半から、冷戦を終わらせようとす
る(多極主義的な)動きと、冷戦の永続を画策
する軍産英複合体との暗闘が激化していた。こ
の暗闘はおそらく、すでに述べた60年代後半
のイギリスの衰退とスエズ以東撤退、英から米
への覇権移転の完了と関係している。英の力が
失われたので、米では、かつてヤルタ体制を作
って世界を多極化しようとした多極主義の勢力
が盛り返し、ロックフェラーやキッシンジャー
が出てきたのだろう。

 そんな中でイスラエルは、英衰退のすきを突
いてアラブと和平しようと六日戦争を起こした
が、米中枢の暗闘の中でイスラエルの戦略は無
効化され、逆にその後エジプトがソ連寄りにな
り、米寄りのイスラエルとの間で長期戦になり
そうな雲行きとなった。

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